革堂行願寺は一千年の歴史をもつお寺です。
創建当時は一条通りにありました。
戦乱や火災でいくたびも焼け、場所を替えつつも、人々の熱烈な信仰によってつねに都の中心部に再建されました。
- 宗派
天台宗宗派 天台宗
- 開基
行円上人
- 御本尊
千手観世音菩薩
- 創建
寛弘元年(西暦1004年)
はじまり(因縁生起)
霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所です。
寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになりました。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移されました。
現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置しています。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがあります。
革堂と行円上人
革堂行願寺の開祖は行円上人です。上人はさまざまに人を助け仏の道を説いてまわりました。密教行者のしるしである宝冠をかぶり、いつも革の衣をまとっていたので、いつしか「革聖(かわひじり)」と呼ばれ親しまれるようになりました。
革堂行願寺は、行円上人が1004年(寛永元)年に、「一条北辺堂(いちじょうほくへんどう)」を復興して「行願寺(ぎょうがんじ)」と名づけたことにはじまります。いっさいの人々の成仏を「ねがい、行(ぎょう)じる」思いが込められています。
御所の北「一条」大路にある、「革聖のお堂」というので「一条かわどう(かうどう・こうどう)」と愛称されました。
西国三十三所観音巡礼 第十九番札所
霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所です。
寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになりました。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移されました。
現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置しています。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがあります。
洛陽三十三所観音巡礼 第四番札所
霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所です。
寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになりました。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移されました。
現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置しています。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがあります。
都七福神めぐり「寿老神」
霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所です。
寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになりました。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移されました。
現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置しています。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがあります。